伊豆の幕末を語る上で、吉田松陰という人の名を外すことはできません。
吉田松陰は長州藩の思想家で教育者。
遊学中、25歳のときにペリーの黒船を目撃し衝撃を受け、密航を決意するものの失敗。
ろう屋にの幽閉、自宅での禁固を経て1859年に幕府要人の暗殺を企てた罪で処刑されてしまいました。
しかし、彼が残した松下村塾では多くの志士が誕生し、その後の明治維新で活躍。
まさに明治維新の火付け役となった人物です。
そんな松陰の足跡は、伊豆にたくさん残されています。
幕末から明治という激変の歴史を辿る旅をしてみませんか。
吉田松陰と金子重輔の様子を残した「踏海の朝」
吉田松陰・金子重輔『踏海の朝』。柿崎弁天島。松陰像。 pic.twitter.com/Rq3hC5syrx
— Yasu (@inoue_yasu) February 11, 2016
伊豆急下田駅から徒歩で約25分。
柿崎弁天島の近くにある公園には、吉田松陰とその弟子を姿を残した像があります。
「踏海の朝」と題された像で、吉田松陰と金子重輔がりりしく立つ様子が表現されています。
松陰像は、大海原が広がる青い海の方向を指さしています。
吉田松陰と言えば「来航していたアメリカの黒船に乗り込もうとした」と言うのが有名な話。
それほど黒船への思いが強かったのでしょう。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
この言葉は、吉田松陰が残した辞世の句です。
過激派ともとれるほど情熱的に生きた松陰の生きざまを感じる句ですね。
松陰が開国の日本を見ることはできなかったのの、彼の死後は高杉晋作、桂小五郎などの弟子が活躍し、明治維新につながりました。
「踏海の朝」の像の前から大海原を見渡せば、幕末にその地に立ち黒船への思いを巡らせた松陰の気持ちが少しわかるかもしれませんね。
吉田松陰の着物などを展示「ハリス記念館」
下田に幕末探訪にきてます!まずは初代アメリカ総領事館、玉泉寺に。ハリス記念館からスタート(*^^*) pic.twitter.com/W0sx2MV6
— kappa (@n_Re_i) January 5, 2013
「踏海の朝」の像がある公園から5分程歩いた場所は「玉泉寺」という寺があり、寺の中にある「ハリス記念館」では、吉田松陰の着物などの遺品を見ることができます。
玉泉寺は、日本で最初にアメリカ総領事館が置かれた場所で、国指定史跡にも選ばれています。
記念館の名前にある「ハリス」とは、総領事館を務めた「タウンゼント・ハリス」の名前からとったもの。
松陰の没後160年以上が経っていますが、展示されている着物は当時の様子をはっきりと思い浮かべられるほど、紺色が残る鮮やかな色合いです。
また、館内ではハリスが愛用していた葉巻・パイプなどの貴重な資料も展示。
幕末とはいったいどんな世界だったのか。世界で使われていた道具などをみると、当時のロマンを感じられるかもしれません。
入館料:大人300円、子供150円
松陰のルーツを巡るなら行っておきたい、共同風呂「上の湯」
蓮台寺 上の湯(吉田松陰湯治所の跡)
村山家の言い伝えによると、夜中松陰先生がここを使っている物音に気づいた村山行郎が、その後自宅に伴ったらしい。 pic.twitter.com/e9B0jFVqJw— あだち (@AdachiTeyandei) March 25, 2018
伊豆急蓮台寺駅から徒歩で約10分ほどの下田市蓮台寺にある、共同風呂「上の湯」。
ここはいわば、吉田松陰のルーツ、はじまりの地ともいえる場所です。
吉田松陰が初めて下田に来た頃皮膚病を患っており、近くの旅館に宿泊しつつ、病を癒すために蓮台寺の温泉へ訪れたのがこの「上の湯」だといいます。
上の湯は、当時からこの地域に住んでいる方専用の浴場。
そのため、松陰は村人の目を盗んで夜中に入浴していたといわれています。
さらに、入浴中に医師の村山行馬郎に声をかけられ、運命的な出会いを果たした場所でもあるのです。
村山行馬郎とえば、吉田松陰に身を隠すための場所を提供した人物として知られています。
現在は、湯船など中を見学することはできません。
しかし、上の湯周辺には古民家や石畳の小道が残り、当時の風情をそのまま感じ取ることができるでしょう。
県指定史跡「吉田松陰寓寄処」
県指定史跡 下田港からの密航の前に疥癬の湯治のためにここに滞在 (@ 吉田松陰寓寄処 in 下田市, 静岡県) https://t.co/2uZMCltofE pic.twitter.com/NTi0YRIM5H
— Jagar.Mogar (@JagarMogar) October 11, 2017
「上の湯」で出会った村山行馬郎が用意してくれた「身を隠すための場所」こそ、この「吉田松陰寓寄処」。
県指定史跡とされています。
「上の湯」とは目と鼻の先の距離です。
茅葺屋根は今も残っており、幕末のその場所のまま。
松陰はここで、行馬郎と開国や文明について語り合ったと言われています。
実際に使ったとされる机や硯箱などの貴重な資料も残り、見学ができますよ。建物内は写真撮影も可能です。
スタッフの方に一言お断りしてから撮影しましょう。
【吉田松陰寓寄処】
・入館料:大人100円、小中学生50円
日米下田条約が結ばれた地、国指定史跡「了仙寺」
アメリカジャスミンで
有名な了仙寺👍
歴史的な場所😍 pic.twitter.com/2Jv9jZAjBh— ゆみー (@sakuraan2021) August 31, 2018
黒船来航後、下田は日米和親条約で最初に開港した場所です。
調印後、ペリーは軍艦7隻を下田に入港させました。そして、日米和親条約附録下田条約をこの了仙寺で締結しました。
下田にあるペリーロードは、ペリー上陸記念公園から了仙寺までの道のりです。
ペリーが300人の部下を引き連れ、行進をしたといわれています。
了仙寺はペリーを初めとする士官たちの休息所、日本側との折衝の場となったといわれています。
ペリーが記した『ペリー日本遠征記』には「会見の時、本堂の中の仏像などは取り除かれていた。僧侶たちは気の毒に見えた。」と記されているそうです。
当時の日本が大きく変化していく様子が表されていますね。
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